私のキャリアデザイン

「選択肢に溢れる時代に生きる」
株式会社ぐるなび
一般社団法人 経営学習研究所 理事。 にっぽんお好み焼き協会 理事。
株式会社ぐるなびで人事の責任者を務める傍ら、
2011年に設立した特例子会社の非常勤代表も担当。
田中 潤
「選択肢に溢れる時代に生きる」

メニューのない店ってありますね。店主が選りすぐったコース料理のみが供されます。食事にあわせたワインもマリアージュされます。あなたは店主のチョイスに自らの身を委ねて、その日のディナーを楽しめばよいのです。いわば、選択の必要のない店です。

地方の駅に降り立ちます。昼食時だったので定食屋を探します。駅前は閑散としており、商店街もありません。少し先に一軒だけ定食屋が見えます。あなたは空腹を感じつつ、その定食屋に足を向けます。いわば、選択の必要のない駅です。
イタリアンレストランを使い慣れていない人にとって、ちょっと高級なイタリア料理店でメニューを選択するのは、少々苦行かもしれません。食前酒は何を選ぶといいのか。スプマンテ? アンティパストもメニューにたくさん載っているけど…。プリモ・ピアットではパスタを選択しようか…。セコンド・ピアットでは肉料理だけでも6種類もあるけど、何が美味しいのか…。そもそも品名だけみても料理がイメージできない。食中酒のワインも選ばないといけないし、ドルチェに、カフェに、食後酒……。いやはや何とも。ディナーのあいだ中、あなたは選択の連続にさらされます。

街中の駅に降り立ちます。昼時だったのでラーメンでも食べようかと周囲をきょろきょろ見渡します。駅前のロータリー周辺だけでもラーメン屋が3軒も並んでいます。3軒をのぞいた上で、雰囲気が一番よさそうな店を選びます。でも、店に入ると少し嫌な予感が…。客があまりいません。食べてみるなり後悔が走ります。美味しくない…。そして、しょっぱすぎる。後悔はその日中、あなたの頭から離れませんでした。選択を間違った…。違う店にすればよかった。あんな選択するんじゃなかった。他の店があったのに…。

私たちは今、選択肢に溢れた豊かな世界に生きています。 でもそれは、私たちは常に選択を迫られているという意味でもあります。
私が社会に出た頃、転職などというものは身近な存在ではありませんでした。新卒で総合職として入った会社では、定年までその会社で勤め上げるといのうが当たり前の価値観として存在していました。なので、最初の職場がどんなにきつくても、最初の上司がどんなに苦手な人でも、同期入社の全員が頑張って自分の仕事に、自分の職場に立ち向かいました。そんな中で徐々に仕事の喜びを感じ始めたり、助けてくれる仲間に出逢ったり、それなりの成長を勝ち取れるようになりました。そして職場に自分の「居場所」を見つけることができました。当時、職場が合わないから転職するという選択肢は誰の頭の中にもありませんでした。配属された職場で精一杯頑張ること以外に、選択肢は事実上ありませんでした。

当時は、定年が正式に60歳になった頃です。定年退職時の社内挨拶では、ほとんどの人が「大過なく勤め上げ」という枕言葉を使っていました。当時の私はその言葉に強烈な違和感を覚えました。「大過なく…」、なんてつまらない企業人生なんだと思いました。でも、働くにつれて「大過なく勤め上げ」という言葉の裏にも数々のドラマがあったに違いないということが理解できるようになってきました。当時は雇用延長などという発想はありませんでした。大過なく勤め上げた方々は、取締役をつとめるような例外を除いて、誰しもが60歳で仕事を辞めました。そこにはほとんど選択肢はなかったわけです。

当時の一般職の女性は、結婚したら退職するのが通例でした。ここにも選択肢はほとんどありませんでした。私のいた会社では、退職日には振袖姿で出社して、お世話になった職場を挨拶まわりするという習慣すらありました。そんな日本が30年くらい前にはあったのです。男女雇用均等法が施行されたのは、その少しあとです。
さらに数十年遡ると、結婚相手を親が決めるという時代がありました。中学を出たら当たり前のように集団列車で金の卵として出稼ぎに出るという時代がありました。社会の発展というのは、選択肢が増えていくということなのかもしれません。そして、これは間違いなく、よいことのはずです。

そして、私たちは今、選択肢に満ち溢れた世界に生きています。 そして、増えすぎた選択肢に時に押しつぶされかねない日々を送っています。今の社会が勝ち取った「選択肢がある幸せ」を上手にデザインできずに苦しんでいます。
新卒での就職活動を例にあげて考えてみましょう。

インターネット採用が一般化することにより、誰しもが多くの情報を得られるようになりました。誰しもが多くの企業に気軽に応募ができるようになりました。指定校制度が公然とまかり通っていたインターネット以前の時代では、特定の大学の就活生だけに大量の資料が届いていたのですが、今では公平に誰しもがインターネットで必要な情報にアクセスできます。あくまでも「見かけ上は」ですが。そして、膨大の情報の中で、選択をする前に疲れ切ってしまう学生すらいます。目の前を流れる情報の何が真実であり、何が本当に必要なものなのかを見極めて、必要な情報を選択することは容易ではありません。

昨今の新卒採用は売り手市場のため、優秀な学生であれば複数の内定を獲得していきます。でも、なかなか就職する企業を決めることができません。「内定ブルー」などという言葉すら生まれました。きっちりとした「決断」をできずに、時期が来たので何となくそのうちの無難そうな1つの企業に入ることは、時に不幸を招きます。

慶應義塾大学の花田光世先生から伺った「判断と決断の違い」についての話を採用セミナー等でよく引用させていただいています。「判断」とは合理的・客観的な意思決定であり、メリット・デメリット分析の結果で出せるような決め方です。これは、ちょっと頭が良い人がきちんと情報を集められれば上手にできることです。これに対して「決断」とは時に合理的とは思えなくても自分としてどうしてもこっちなんだと思って決めることです。

就職活動の結果、入社する企業を決める場合、「判断」で決めることはできません。その理由は、合理的に決められるだけの情報を入社前に完全に集めることが不可能だからです。入社後の仕事は、どこに入っても大変です。入社後にはどんどん大変な情報が入ってきます。採用時には素敵な先輩ばかりに会っていたのが、配属されると当たり前ですが嫌な人だっています。そして「こんなはずじゃなかった」といって早期退職を選択する人が出てきます。「判断」レベルで進路を決めるとこういったことが起こりがちです。就活で垣間見た情報だけで「こんなはず」だなど判断すること自体に無理があるのです。しっかりとした「決断」をできずに入社してきた新入社員は、困難に対峙することがなかなかできません。

通勤電車の中には求人広告が溢れています。最初の仕事がうまくいかなければ、転職という選択肢が今はあります。紹介会社に行けば、多くの企業が紹介されます。公募制度、FA制度、自己申告制度、企業の中だってそうです。命じられた職場でひたすら頑張る必要はなくなってきました。
キャリアにおける選択肢の乏しい世界では、キャリアデザインという概念は必要なかったのかもしれません。 しかし、今や世の中には選択肢が溢れきっています。選択肢や情報が乏しかった時代は、私たちの悩みも乏しかった時代なのだといえるのかもしれません。選択肢と情報が豊富な時代は間違いなく良い時代ですが、それなりに難しい生き方を求められる時代でもあります。

選択肢に溢れる時代で、どう自らをデザインするか。そしてどう連続的に小さな「決断」をしていくか。自らのキャリアにどう対峙し、どう切り拓いていくか。豊かな時代ゆえの難問に私たちは直面しているのです。