私のキャリアデザイン

「「選べない」に向き合う」
中央大学ビジネススクール客員教授
(一社)日本キャリアデザイン学会専務理事・事務局長
荻野 勝彦
「「選べない」に向き合う」

 もう40年近くも前、私が新卒就職したばかりの頃の話になります。私の就職先には、その当時すでに年1回の上司との人事面談の制度があり、人事異動の希望を次の5択で申告できるようになっていました。
(1)現職継続希望 __年
(2)部内異動希望 希望異動先______課
(3)部外転出希望 希望転出先______部
(4)???
(5)その他 (_____________)

 さて、残る(4)、これはある意味わが国大企業の人事管理の特徴が顕著に表れている選択肢だと思うのですが、どんなものか見当がつくでしょうか?

 答は「上司に一任」。いかがでしょうか、企業が人事権を持ち、部下の育成とキャリア形成が管理職の重要な役割とされる日本企業(特に大企業)らしい選択肢だとは思わないでしょうか。実際には、これが選択された場合には人事面談を通じて(1)~(3)のいずれかに書き直すことが多かったようで、いつのまにかなくなってしまいましたが、まだ自分の関心や適性に確信が持てない若年者などには選びやすいものだったのかもかもしれません。

 キャリア自律の重要性が言われ、職務指定の中途採用も拡大し、近年では初任配属先を特定した新卒採用も行われているようです。とはいえ、いずれも最初の職場・仕事を特定しているだけで、その後の人事異動は企業の都合で実施する、つまり人事権は企業に残っているケースがほとんどではないでしょうか。昨今、Covid-19のパンデミックなどもあって働き方が変化し、多くの企業が人事改革に取り組んでいますが、人事権を手放すところまで踏み込んだ例はほとんど見られないようです。1on1ミーティングなどを通じて従業員の希望は聞き、配慮もするし、決定について説明もするが、最終的な決定は企業が行う。海外駐在などについては従業員の事情を最大限優先するが、絶対的な拒否権までは与えない。企業による違いは大きいでしょうが、大雑把な最大公約数としてはこんなところではないかと思われます。

 人事が希望通りにはならないのは万国共通でしょうが、諸外国においては職務記述書にない仕事を命じられたり、職務記述書を一方的に変更されたりすることはないというのが一般的な理解でしょう(現実の運用は様々としても)。これに対して、日本企業では、いかに従業員の希望に配慮しますとは言っても、不本意な仕事、想定外の仕事を命じられるということが起こり得ます。「自分で選んだ仕事ではなく、企業が決めた仕事をさせられる。それが日本人のエンゲージメントが低い原因である。」こんな意見もあるようですが、社員は企業に人事権(自分のキャリア)を売り渡し、その対価として定年までの雇用の安定と生計費を得るという長期的かつ打算的な取引を労使自らが選択してきた以上、キャリア形成が企業主導になることは致し方のないところなのかもしれません。この国で大企業に就職するということは、そういうことなのでしょう。

 昨今の人事改革事例をみると、経営環境の厳しさや組織構造の課題を反映したものか、降格や減給といった厳しい取り扱いを含むものが目立ちます。「制度上あり得る」と「現実に実行される」は全く異なるものですが、それでも不本意や想定外は拡大する方向ではないかと思われます。そうした中で、「職場では上司は良きキャリコンであれ」というのは簡単ですが、実際問題として部下の希望を聞き、それに配慮するとともに、ときには厳しい取り扱いについて説明し理解を求めるというのは非常な難事ではあるでしょう。

 逆に言えば、働く人にとっても、今後は不本意な人事異動、想定外の人事異動に直面する可能性は高まると考えたほうがいいのかもしれません。日本の典型的な大企業に入ったら、基本的に仕事は選べない。それにどう向き合うのか。

 「そういう時こそ、その仕事を勉強しましょう」。これが、私がビジネススクールの授業や、あるいは私のところにOB訪問に来てくれる奇特な就活生さんたちへのアドバイスで強調していることです。想定外の仕事については、誰しも詳しい情報は持ち合わせていないもの。一方で、どんな仕事でも必要があるから存在するわけです。せっかく巡り合った仕事なのですから、知らないままに困惑していても仕方ありません。「キャリアの8割は予想しない偶発的なことに左右される」、それならその偶然をよりよいキャリア形成に活かしましょう、そのためにはまずその仕事の意義と魅力を学びましょうということで、おなじみクランボルツ先生の計画的偶発性理論です。先生は「未決定は学習を促す好ましい状態」ともおっしゃっていたではありませんか。日本企業の「選べない」人事管理は、実は偶発性を呼び込む人事管理なのかもしれませんし、「選べない」に向き合うということは、かなり逆説的ではありますが、置かれた状況を自ら打開していくという意味では立派なキャリア自律ではないでしょうか?

 私自身も実は想定外の仕事に異動したことがあり、当初は「おかしいねえ最終消費財メーカーに就職したはずなのにどうしてこんな仕事をしているのだろう」と思ったものですが、まあこれも計画的偶発性だろうということで、現場が大事な仕事だったのでまず現場を見に行き、現場の話を聞いているうちに、なぜこの仕事が必要なのか、誰が何を期待しているのかがわかってきて、やがて前任者とは違うやり方を考えてみたりもするようになってきました。こうなるとしめたもので、「おかしいねえ」という仕事が面白くなってくる。キャリア理論は役に立つのです。なにやら近年、こうした職務の意義の再定義や、自律性の発揮といった取り組みは、「ジョブ・クラフティング」と称されてエンゲージメントの向上に効果的であるとされているとか。

 もちろん、時と場合によっては、自分自身の譲れない価値観と対立するような仕事を命じられることもあるかもしれません。こちらはシャイン先生のキャリア・アンカーとキャリア・サバイバルですね。転職を決断せざるを得ないこともあるでしょう。あるいは、大企業であれば、いわゆる「社内政治」を活用して打開をはかるというチャンスもあるかもしれません。

 そこで大切なのは、どうしても許容できない部分だけは「やり過ごす」ということも不可能ではないかもしれない、ということだろうと思います。それは、外から見れば、たまたま異動先の仕事が合わなくて十分なパフォーマンスが上がらない、といった見え方をするでしょう。それが人事評価に反映されることは避けられませんが、それで解雇されるということは考えにくいですし、賃金などの処遇が低下するということも、あったとしても小幅でしょう。つまり、失われるのはもっぱらそこから先のキャリア(≒昇進・昇格)だけであって、逆に言えばそれを諦めさえすればかなりの自由が手に入る。これは案外意識されていない、日本的人事管理のいい点なのかもしれません。

 実は、好むと好まざるにかかわらず、こうしたキャリアの天井、キャリア・プラトーは誰にでも訪れます。キャリアをめぐる競争の中では、社長は4年に1人のチャンピオンということになりますし、当然ながら誰もが部長や執行役員になれるわけではありません。目に見える形では明らかにされないだけで、キャリアのある時点からは、「まだ先々上が望める人」が絞られてきて、「たぶんここ止まり、運が良ければもう一段階くらいは上がるかもしれない人」がどんどん多くなっていくというのが日本企業の実情でしょう。

 現在の日本企業では、そこから先こそ、キャリア自律が必要なのかもしれません。これは要するに、企業がこれ以上はキャリアの面倒を見ないよ、という人が増えてくるということだろうからです。企業がやってくれなければ、自分でやるしかないというのはまあわかりやすい話でしょう。もちろん引き続き生計費は稼得しなければならないので、企業内での振舞い方を考える必要は当然あります。その上で、人事制度をふまえて、緩やかに「下りていく」選択もあるでしょう。下りると決めれば自由度は高まりますから、それをどう生かしていくか。私自身も、労働問題やキャリアデザインと直接関係のない仕事に従事していた時期もありましたが、日本キャリアデザイン学会などの場での活動を継続してきたことで、現在の自分があります。幸いにして、昨今は起業をふくむ兼業・副業が奨励されるなど、選択肢は増えています。70歳継続就労努力義務化でも、起業支援や社会貢献活動が織り込まれました。

 人生100年時代と言われます。確かに、日本人の寿命はまだかなりリニアに延びているようです。70歳継続就労が75歳、80歳になる未来を考えれば、ピークを過ぎてからの時間がより長くなるということになります。その時間帯をどのようにキャリア自律していくかが、人生100年時代の課題と言えそうです。パラレルキャリアとか、サードプレイスとか、それら自体はそれほど新しくもない言葉を、昨今耳にすることが多くなってきたように感じるのは、いよいよそうした将来が意識されるようになったことの反映なのかもしれません。

 日本キャリアデザイン学会が、こうした分野の調査・研究や実践の場であるにとどまらず、会員にとってのパラレルキャリアやサードプレイスの場としても発展していくことを一会員として期待したいと思います。