私のキャリアデザイン

「米国の人事担当者として赴任した日々」
元横浜市立大学教授
菊地 達昭
「米国の人事担当者として赴任した日々」

サンフランシスコは、「霧のサンフランシスコ」のことば通り、晴天の日は少なく街はいつも霧に包まれている。知人の結婚式に招かれ、久しぶりにこの街に来た。結婚式が行われたサンタ・クルーズを海沿いに北上し、23年ぶりに5年半住んだコンドミニアムを訪ねた。空港から20分ほど南に位置するサン・カルロスは、山の上まで眺望を求めて家が建つ。夏の日差しと眠ったような静けさのなかで、ガラガラヘビがいるから危険だといった崖も、蜜を吸いに羽を激しくはばたかせていたハミングバードが今にも飛んでくるようで、全く23年前と同じたたずまいと雰囲気があった。

米国子会社への出向は、1年半前に言い渡されていた。人事制度を担当し、将来の制度設計のためにシミュレーションをやりたくてシステム開発の勉強をはじめていた。そして、そのシステム力を買われ、国際人事部門へと異動することになった。そこでは、増えてきた海外勤務者をどのようにローテーションしていくのか、その後任を日本でどう育成するのかをシステム的に解決することが命じられていた。後に、海外事業要員育成システムと名づけられることになるシステムの設計と開発であった。

赴任した会社は、北米の半導体3社を統合して法律的には成立していた。しかし、私が赴任するまでは社長も含めて正式に赴任した出向者はおらず、旧3社に出向していた出向者と米国人社員が、そのまま別々にオペレーションを続けていた。1社は、NECアメリカという日本人中心の会社からスピンアウトし、シリコンバレーのサニーベールにあった販売会社、2社目はボストン郊外にあり、米国人を中心に設立した販売会社、3社目はシリコンバレーのマウンテンビューにあり、倒産した米国半導体組立会社を買収した製造会社であった。

私のミッションは、新会社のコンペンセーションおよびベネフィットの統合とIPOをしていないために導入できなかったストック・オプションに代わる幹部報酬制度の設計であった。それまでにもファントム・ストック・オプションあるいはストック・アプリシエーション・ライトと呼ばれる幹部報酬制度の導入を試みたが、ことごとく失敗に終わっていた。これらプランのメジャーメントをどう設計するのか、さらにそれをどのように評価するかで、日米双方で不毛な議論が続けられていた。利益ひとつをとっても、日本側支援の評価を過小評価したい米国人幹部と、日本側事業部とでは大きな隔たりがあった。

ベネフィットの統合でも赴任当初からつまずく。米国では、退職時に未使用の有給休暇を買い取ることが一般的に行われている。旧3社の休暇規程は違っており、新規程ができる前の退職者はどの会社の規程によって買い取るかが問題となった。悪い規程の退職者が黒人ともなれば、人種差別問題へと発展する可能性もある。簡単なのは、最も良い会社の規程を適用することであった。このようにして、各社の最も良い制度が全社の制度となっていった。

これらをどう適正化していくのか。「お前を派遣したのは、全米一のベネフィットプラン導入のためではない」という日本からの叱責のなかで、米国人社員からもピーリング・ワンバイワン(一枚ずつ剥ぐ)と非難されながら、トータル・コンペンセーションとしての適正化を実施していくことになる。ストック・オプションに代わる幹部報酬制度としては、ADR(American Depositary Receipt)を使ったプランの導入を行うことができた。対立から理解へと変化するなかで、社員全員の給与が正しく支給されていないという事態、米国人トップ3人が会社を相手取って訴訟を起こすという大きな危機にも遭遇した。

文化・習慣・宗教・言語・民族・法律・気候・風土が違うなかで、日米での激しい利害対立、その間にあってストレスで眠れない夜を過ごしたこのコンドミニアムでの生活を想い、果たして日米の人事に横たわる問題がこの23年間でどのくらい解決できているのだろうか。小さかった息子を可愛がってくれた老夫婦は6年前に亡くなっていた。学校の先生をしていたティナは母親の介護で留守であったが、まだ健在とのことであった。グローバル化の進展のなかで、日本における人事・人材開発の進むべき道はまだ見えていないように思える。

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