私のキャリアデザイン

「自ら形づくる生涯キャリア」
関西大学社会学部教授
日本キャリアデザイン学会常務理事
川﨑 友嗣
「自ら形づくる生涯キャリア」

■武蔵野台地
本欄は「私のキャリアデザイン」として出発し、「私のキャリアデザイン論」に移行してきたようである。逆行することになるかもしれないが、たまには自分自身のキャリアについて語ってみようと思う。

戸籍謄本によれば、1960年10月3日、私は東京の目黒区で生を受けた。これは母が里帰りして出産したためであり、その後は東京都田無市の実家で育ち成人した。江戸と青梅のちょうど中間に位置する田無という町は、お隣の保谷とともに幕府直轄の宿場町として開けたところである。水の便が悪い武蔵野台地にあり、陸稲しかとれず田んぼがないため田無と呼ばれるようになったという。江戸時代に村単位で設けられた共同の「マイマイズ井戸」の跡を子どものころに訪ねたことがある。水脈が深いため、地面をすり鉢状に掘り下げ、その底から垂直に井戸を掘る。井戸がある底までおりていく螺旋状の小径がカタツムリの模様に似ているため「マイマイズ井戸」と呼ばれている。

私が4~5歳のころまでは北多摩郡田無町であり、田無市になったときは全国で最も面積の小さい市であった。今では保谷市と合併して西東京市となっている。結婚後も、1997年に関西大学に勤務するまで実家で暮らしていた私にとって、田無はまぎれもなく、ふるさとである。

田無は確かに東京都ではあるが、都心から離れた郊外の武蔵野で育った私は、東京という大都会に対してはあまり思い入れがない。大阪に来てから、やむを得ず東京出身と話しているが、違和感を覚えることが多い。私を育んでくれたのは武蔵野台地であり、多摩である。多摩というといささか範囲が広がるが、東京時代は車も多摩ナンバーであった。田無とその近隣の地域には、今も武蔵野の面影を残す雑木林が散在しているが、私が郷愁を覚えるのは、やはり武蔵野や多摩という地域である。

しかし、このようなふるさと意識を明確に認識したのは大阪に転居してからのことである。海外で過ごした1年間を除くと、これまでの人生におけるたった一度の転居であるだけに、これまでたどってきた道をふり返る契機になったようである。

■日本労働研究機構
私の職業キャリアは、1991年4月1日、労働省所管の特殊法人であった日本労働研究機構の研究員として始まった。初出勤の日に2枚の辞令が交付され、1枚には「日本労働研究機構職員に採用する、研究職4等級に任ずる、1号俸を給する、研究員に任ずる」と書かれており、もう1枚には「職業指導、職業紹介研究担当を命ずる」と書かれていた。思えばこれが私と職業研究・キャリア研究の出会いであったのだが、辞令をみた私は首をひねった。「職業指導、職業紹介研究担当」は所属することになる部署名であり、後に「キャリアガイダンス研究担当」と名称が変更されたが、私には「職業指導・職業紹介研究」とはどのような研究を指しているのか、わからなかったのである。

私は早稲田大学教育学部教育学科教育心理学専修から早稲田大学大学院文学研究科心理学専攻に進み、生涯発達の観点から老年期の解明をめざす高年発達研究を志していた。研究所に就職が決まるまでの研究業績は、老年期に関するものがほとんどであった。当時の研究所には、かつての「高齢者研究部」を含む「勤労者生活研究担当」という部署があり、私はてっきりそこに配属されると思っていただけに、大きな不安を抱えての職業キャリアをスタートさせることになる。

しかし、研究所の仕事は新鮮であった。6年間と在籍期間は予想に反して長くはなかったが、その間に労働省編職業分類の改訂や職業ハンドブックの改訂、職業ハンドブックCD-ROM検索システムの開発など日本労働研究機構でしか経験できない重要な仕事を担当し、また高年発達研究とキャリア研究を融合した生涯キャリア発達研究としての引退過程の研究も手がけることができた。老年心理学の分野から職業心理学・キャリア心理学の分野へと大きく衣替えをしたようにみえる私のキャリアであるが、そこには私なりの道筋があった。いや、私なりに道筋をつけたともいえる。そのきっかけとなった出来事は2つある。

■海上労働科学研究所
日本労働研究機構に就職する前年、私は非常勤研究員として運輸省所管の財団法人、海上労働科学研究所に1年間、非常勤研究員として週3日間勤務していた。実はそこで、すでに職業研究・キャリア研究と出会っていたのである。

海上労働に関する諸事項は労働省ではなく運輸省が所管している。年金や健康保険も陸上とは別であった。わずかに1年間であったが、私は海上労働科学研究所において、商船高専や海員学校の生徒を対象に実施した船員職業に関する意識調査、パイロット(水先案内人)の健康に関する調査、当時話題になっていた混乗船におけるトラブル事例とその対処に関する調査などを担当させてもらい、海上労働という特殊なキャリアに関する多くの知識を得ることができた。

一方、老年心理学の分野で仕事をしようと考えていた私は、海上労働科学研究所時代の1年間、大いに悩んでいた。自分のやりたい研究と求められる仕事との折り合いをつけることができなかったのである。しかしながら、日本労働研究機構の研究員として採用され、「職業指導・職業紹介研究担当」に配属されたことで、1年前に海上労働科学研究所で経験したことが研究活動の上でつながったのである。このことに気づいたのは、日本労働研究機構に就職してまもなくであった。

■ペンシルベニア州立大学
日本労働研究機構に就職した1年目、図らずも海上労働科学研究所での経験が事前学習的な役割を果たすことになり、研究所で求められる仕事をこなすことができた。大いに助かるとともに研究員としてのキャリアがつながったことに驚きも感じていた。学部時代から大学院時代にかけての5年間、アルバイトと臨時研究助手として、日本労働研究機構(雇用職業総合研究所)の仕事をお手伝いさせていただいていたことも私の初期キャリアにとっては大きなプラスであったと思う。

しかしながら、老年心理学と職業心理学・キャリア心理学との折り合いをつけることはできず、この点においては相変わらず悩んでいた。そのときに注目したのが生涯キャリア発達の理論である。老年期の問題もキャリアの問題も、生涯発達の観点からアプローチしてこそ解明されるはずであると考え、これによってようやく研究者としての折り合いをつけられるのではないかと思ったのである。

そこで、大学の在外研究にあたる研究所の制度を利用してペンシルベニア州立大学に1年間滞在し、Dr. Vondracekの元で一緒に仕事もさせてもらいながら、キャリア発達についてじっくり学び、その後の研究活動についての見通しを持つことができた。「生涯にわたるキャリア発達とその支援」を大きな研究テーマとして掲げようと志すようになり、帰国後にその第一弾として、研究所で職業ハンドブックの改訂や職業分類の改訂と合わせて、引退過程の心理学的研究に取り組んだ。これはまさに、老年心理学と職業心理学・キャリア心理学融合の試みでもあった。ペンシルベニア州立大学を訪問するに際しては、当学会の前会長である渡辺三枝子先生と日本キャリア教育学会の前会長であり、現在の同僚でもある清水和秋先生に大変お世話になったが、私のキャリアにとって実に貴重な1年間であった。この場をお借りして、お二人には改めて感謝の意を表したい。

■関西大学
その後、縁があり1997年4月1日から関西大学社会学部に勤務することになった。辞令には「助教授に任ずる、2等級5号俸を給する、関西大学社会学部勤務を命ずる」と書かれているだけであるが、主たる担当科目は13年目の今日に至るまで「職業指導」である。着任の際も、もはや首をかしげることはなかった。たまたま大学に移ることになったが、研究所の「職業指導・職業紹介研究担当」がそのまま「職業指導」という担当科目につながった幸運にひたすら感謝している。

大学では「生涯にわたるキャリア発達とその支援」という枠組みに基づき、後期キャリアのテーマとして引退過程に関する研究を継続するとともに、中期キャリアのテーマとしてライフキャリアに関する研究に取り組み、初期キャリアのテーマとして大学生を対象としたキャリア決定に及ぼす職業情報の効果に関する研究や若年者のキャリア自立に関する研究などを行ってきた。最近では、さらに対象となる年齢層を下げて、中学生を対象としたキャリア教育の効果に関する研究にも取り組んでいる。また、2001年からは大学のキャリアデザイン担当主事として、キャリア相談やセミナーなど学生のキャリア形成支援の実践にも携わっている。

発達心理学者の中には、自身の加齢とともに研究対象となる年齢層を上げていく研究者もいるが、私の場合はその逆になった。しかし、「生涯にわたるキャリア発達とその支援」という枠組みを構想したペンシルベニア州立大学での1年間が起点となって、曲がりなりにも今日まで研究者としてのキャリアを歩んでくることができたと考えている。私は決して成功者ではないし、優れた研究業績を残しているわけでもない。不十分ではあるが、いろいろな出来事の影響を受けながらも、キャリア研究とキャリア支援の実践に携わり続けてきたことだけは確かである。

■自ら形づくる生涯キャリア
キャリアについての定義はいろいろあるが、私はワークキャリアを含むライフキャリアとしてとらえる立場をとっている。また、キャリアをキルトにたとえる研究者もいるし、轍にたとえる研究者もいるが、私は生涯をかけて自ら形づくっていくものと考えている。偶発的な出来事がキャリアを規定するという考え方もあるが、私の場合、大学で心理学を専攻したのも実は偶然であった。出身学部の専修が「教育心理学専修」という名称でなかったら、私は受験していなかった。高校生のころの私は日本民俗学を専攻したいと考えており、これを学べる学部・学科を中心に受験していた。たまたま受験情報で「教育心理学専修」という存在を知り、「心理学」とは異なる「教育心理学」という別の学問があるのだと思った。心理学についての理解はまったくなかったが、先入観もないまま入学し、心理学について学ぶ楽しさを知った。

改めて自らのキャリアをふり返り、キャリアは生涯をかけて一人一人が自ら形づくっていくものという思いを強くしている。多くの偶発的な出来事や外的な要因があり、またお世話になった方々がいたのは確かであるが、自分なりに道筋をつけて歩んできたという思いが強い。多くの出来事の影響を受けながら、キャリアがひとつの「線」としてつながってきたことに驚きを感じるのであるが、実は自分でつなげてきたのだと思う。私は決して計画的であったとはいえないが、おそらく多くの人がそうであろう。私はおよそキャリアデザインとはかけ離れた生き方をしてきたかもしれないが、これからの生き方・働き方を考えること、将来のビジョンを描き、それを自らの時間的展望として位置づけることをキャリアデザインとするならば、いつでも誰にでもキャリアデザインが必要であるとは限らない。むしろ、つまずいたときにこそキャリアデザインが求められるのではなかろうか。私の場合は、就職した1年目がそれであり、米国に滞在した1年間に描いたデザインが今日につながっている。

将来の夢や目標を描くことは大切である。しかし、最近はこのことがあまりにも強調されすぎているきらいがある。夢や目標を描くこと自体が大切なのではなく、そのことによって自らキャリアを形づくっていくことが大切であろう。キャリアは歩み続けながら自分で育てていくものである。どうしたら一人一人が歩み続けることができるのか、今後も研究と実践を通して追求していきたいと考えている。

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