奇跡、戸惑い
パソコンのメール・ボックスに溜まる迷惑メールを削除することが日課になって久しい。そのような状態だからメール・ボックスそのものを閉じてしまえばよいのだが、ごくごくたまに知人、友人、教え子などからのメールが来るので閉じられない。7月の半ば頃、いつものように迷惑メールを削除していると、“YAMANO”という文字が目に入った。“まさか”“もしや”と思いつつ当該メールを開いてみると、やはり山野先生からのメールであった。もう10年以上も先生とお会いしていないから“YAMANO”という文字に気づいて削除しなかったのは奇跡だと思いつつ、メール文を拝読すると、「私のキャリアデザイン」というテーマでエッセイを執筆してほしいという依頼であった。戸惑った。高校教員、教育委員会指導主事、教科調査官、大学教員という職業キャリアを経てきたが、これらの職に就くに当たってVIEWやVISIONを持っていたのは高校教員を志望した時だけで、指導主事や教科調査官については、その仕事内容すら知らなかった。指導主事以降の職業キャリアは“行き当たりばったり”のものだったのである。とてもではないが山野先生からいただいたテーマについては書くことが出来ない、まして3000字など到底無理だ。そこで、キャリア教育が軌道に乗る以前の状況、いわば“夜明け前のキャリア教育”“キャリア教育の夜明け”について書かせて頂くことにした。今更?
夜明け前
1999年の中央教育審議会答申いわゆる「接続答申」で小学校段階からのキャリア教育の推進が提言されてから4半世紀余が過ぎた。現行の小・中・高等学校学習指導要領では、学校がキャリア教育に取り組まなければならないことが総則に、また、取り組むべき内容が学級活動・ホームルーム活動の内容(3)に明記されている。‘99の答申に関わり、当時、キャリア教育の推進を期待しつつもその実現を危惧していた私からすると、隔世の感がある。
現状、順風満帆に航海しているかに見えるキャリア教育ではあるが、その船出は帆を上げたものの、まるで風が吹かず、一寸たりとも進まない帆船のようなものであった。‘99年の「接続答申」から2001年までの約2年間、文部省はキャリア教育に関する施策に取り組むことが無かったのである。その理由として、第一には、当時にあっては多くの学校教育関係者と同じように、文部省内でも”キャリア教育って何?”といった状態であったことが上げられる。第二に、’01年1月の省庁改編に伴って文部省は文部科学省(以下、「文科省」と略)になり、同時に行われた省内の組織改編によって、進路指導・キャリア教育そして「接続答申」を担当していた職業教育課が廃止され、それの担当が新設の児童生徒課に移されたことも大きく影響したといえよう。職業教育課が廃止にともなって、「接続答申」に関わった人がいなくなったのである。
このような状況を打開し、キャリア教育の船出に必要な風を吹かせたのは、2000年4月に着任した板橋教科調査官(進路指導担当)であった。氏が文科省や国立教育政策研究所(以下、「国研」と略)にどのような働きかけをどれほどしたかは知る由もないが、’01年8月に国研生徒指導研究センターに「児童生徒の職業観・勤労観を育む教育の推進に関する調査研究会議」が立ち上げられたのである。ただ、会議の名称が「児童生徒の職業観・勤労観を育む教育の推進…」とあるように、この時点にあっても、キャリア教育という語は用いられず、文科省、国研がキャリア教育推進の取組に正対していたかは疑わしい。会議の立ち上げにあたって、「私はキャリアという言葉は嫌いだ」という某高官の意向で、会議の名称に”キャリア教育”を冠することができなかったと、まことしやかに噂された。噂の真偽はともかくとして、キャリア教育を取り巻く文科省や国研の当時の雰囲気、状況を語るにふさわしい逸話ではある。このような会議を取り巻く環境に関わりなく、その調査研究はキャリア教育の調査・研究として粛々と進められた。
夜明け
板橋教科調査官が吹かせた風は、’02年11月に報告書(以下、「国研報告書」と略。)にまとめられ、公表された。「接続答申」から3年、キャリア教育はようやくに夜明けを迎え、帆に風を受けて船出した。
この「国研報告書」は、キャリア教育という語が記述されていなかったためか、あるいは、報告書の公表に前後して文部科学省初等中等教育局児童生徒課に「キャリア教育の推進に関する総合的調査研究協力者会議」(以下、「文科省調査研究会議」と略)が設置されて、こちらに耳目が集まったためか、あまり注目されなかったように思われる。しかし、報告書文中の「職業観・勤労観を育む教育」を「キャリア教育」に置き換えながら丹念に読むと、これがキャリア教育を理解し、取り組む上で極めて貴重な資料、文献であることが分かる。そのことに関わる私自身の経験を…。
教育委員会などからの依頼でキャリア教育に関する研修会の講師を努める機会が多くあった。そのような研修会で、受講者の先生から「キャリア教育とは、端的にはどのような教育ですか」という質問を何回か受けた。1時間以上もキャリア教育について語った後に、そのような質問を受けると、自分は何を語ったのかと自問しつつ身体から力が抜けてしまいそうになったが、この率直・ストレートな質問に的確に答えるのは難しかった、キャリア教育の定義を持ち出してもヒットにならない。「あーだ」「こーだ」とファールを打ち続けるのが精一杯。自分の勉強不足を痛感しつつ答えを探した。行きついたのが「国研報告書」であった。報告書には、「キャリア教育は、児童生徒のキャリア発達を促す教育活動である」、「キャリア発達は、児童生徒の各発達段階におけるキャリア発達課題の達成によって促進される」と、明快に記述されている。「端的には」の答えが見つかった。この答えの先には小・中・高校生のキャリア発達課題とは何か、また、発達課題の達成を指導・援助するにはどのようにしたらよいのかといった疑問が続くわけであるが、「国研報告書」はこれらの疑問にも答えている。小・中・高等学校の学校段階別に児童生徒のキャリア発達課題を示すとともに、キャリア発達課題を達成するために児童生徒にどのような能力を養うべきかを、「4つの能力(8つの能力)」として提案している。
さて、いただいた字数が尽きようとしている。文科省は、若者の社会への移行、定着に深刻な問題が生じている状況を受けて、‘02年にキャリア教育に本格的に取り組み始めた。10月に「文科省調査研究会議」に立ち上げ、’04年1月報告書をまとめると、同年4月からは、キャリア教育を学校の実践に移すべく、地域指定の研究指定事業を始めた。指定地域内の小・中・高等学校が連携し、12年間にわたるキャリア教育の実践研究の取組を委託する事業であった。翌’05年からは国研がキャリア教育に関するガイドブック、手引、実践事例集を刊行、配布した。キャリア教育が帆いっぱいに風を受けて大海に乗り出した。
最後につぶやく
「国研報告書」が提案したキャリア発達課題や「4能力(8能力)」の妥当性について検証した人はいるのかなー。