<小学生・中学生時代>
小さいころから野球が好きであった。生まれは富山県高岡市で正力松太郎の出身地のそばであったせいか、プロ野球も読売巨人軍のファンだった記憶がある。巨人全盛や漫画の『巨人の星』の影響もあったかもしれない。
野球はとびぬけてうまくはなかったが、下手ではなかった。野球に没頭し、中学時代は主将もつとめ、一番サードであった。私の初期キャリアの選択で、振り返ってみるとこのときの選択がその後のキャリアに大きかった。地元の野球強豪校に進むか、学業成績がよかったので進学校にいくかである。
両親は商店を経営していたので、父親の母校である商業高校の野球強豪校がよかったのかしれない。中学の野球部先輩も何人かこの高校に進んでいたが、彼らより私は体力不足であった。有望な選手は、この高校から声がかかるとも聞いていたので、声がかからなかった時点で進学校へすすむことに決めた。
野球が好きだったので進学校にはいっても野球部に入部し、日々の練習に励んだ。もちろん中学時代より進歩したが、野球強豪校にはかなわない。ポジションはセカンドであったが、たまたまこの高校と春のリーグで対戦したときは先発投手をまかされた。強打者にさく越えのホームランを打たれたことを鮮明に覚えている。3年間の高校野球部で、一度も公式戦で勝利を味わえなかった。消化不良の野球生活だったが、腰を痛め、大学以降は野球部にはいることをあきらめた。
野球部の1年上に京都大学に進学した先輩がいたので、京大に決めた。何となくビジネスマンになろうと考えていたので、経済学部を選んだ。
<大学・院生時代における学者との出会いと研究テーマの確定>
大学にはいると学園紛争の名残りもあり、京都でいろいろな経験ができた。しかし経済学は「マルクス経済学 vs 近代経済学」という不毛な対立があり、決して魅力満載の学問ではなかった。そのなかで、会社に入らず研究者の道を歩もうと決心したのは、京大がらみの多くの学者と出会ったからである。すべて故人になられたが、浅沼萬理、青木昌彦、小池和男らの研究から、経済学は面白いと感じた。広い意味で近代経済学だが、米国の研究を超えるものを感じたためである。
大学院の指導教官はマルクス経済学系統であったが、ずいぶん自由にさせていただいた。修士論文のテーマを決めるのに、女性労働をやりたいというと、まずは学史をしっかり研究すべきと助言をうけ、「差別」の視点から労働市場を考えるテーマにして、まとめた(1979年)。すぐジェンダー論や女性研究にとびこまず、この時期があったのは、とてもよかった。
その後の女性労働研究では差別という用語は一度も使わなかったが、最終講義では「差別概念について」というタイトルにした(そのときの論文が脇坂 2024)。
<岡山大学時代の女性キャリア調査>
最初の就職先である岡山大学では、研究に費やす時間が豊富にあった。小池和男氏の企業内キャリア論をベースに、研究の手薄であった女性ホワイトカラーを対象に調査研究に励んだ。ややもすれば観念的になりがちな女性研究に、現場職場の実態を調べることが急務と感じた。岡山という土地なので対象企業はすぐ底をつき、大阪を中心とした関西の企業を多くまわった。1990年代に入ってからは東京にでむき企業の調査も増えたが、東西の企業で本質的なところは差がないことを感じた。
さまざまな女性のキャリアに接するなかで、型にはまった女性弱者論に走らなかったのは、私が男性であったことがよかったのかもしれない。当時は男性研究者で女性労働を研究するのは、同年代の冨田安信(大阪府立大学→同志社大学)ぐらいであった。またこのころは均等法、育児休業法などができ女性に関する社会の関心が高まっていたことも研究を進めるうえで追い風だった。均等法以前は、何のための調査に来るのかと訝られることもしばしばであった。
17年間の岡山生活で、研究の基盤は築けたと感じている。趣味の野球は続け職場の草野球のチームにもはいり、多くの試合に出場した。岡山は広島と阪神ファンが半々で、地元の人とよく野球談議をした。
<学習院大学時代の女性キャリアからワーク・ライフ・バランスへ>
1999年に東京に移り、学習院大学から遠くない、東京ドームに近いところに居をかまえた。このことが定年後の研究?に影響を与えたことは最後に述べる。
学習院に移ってからは、多くの研究プロジェクトに参加し、女性キャリア調査も増えた。女性以外のテーマのプロジェクト調査依頼も増えすぎたので、ある意味、逃げ出すように、2004年に1年間英国オクスフォードで研究を行った。そのときに出会ったのが、英国のワークライフバランス(WLB)である。
以前から文献で知ってはいたが、当地に居住すると、新聞テレビからも情報がはいるだけでなく、同じ論文を読んでも、日本ではえられない高揚感があった。そのとき最も重要なのは、「ウィンーウィン(win-win)」、つまり労働者にとって良いことは企業にとっても良いことだというポイントが分かった。
帰国後、どういうわけかWLBが日本で非常に関心を浴び始めていた。私も英国のWLB概念を話す機会がいくつかあったが、私がWLBを広めたわけではない。法政大学の川喜多先生が中心に立ち上げられた日本キャリアデザイン学会から入会のすすめがあり、当時小池和男先生もはいられていたので入会した。その後、役員に割り当てられたあと会長を5年も務めた。それなりに大変であったが、いままでとは異なる分野の研究者や実務者と出会えたことは幸せだった。とくに心理学関係の知識は不十分であったことがわかり、第一線の会員たちに接したことはよかった。
また並行して電機連合の組合員調査のプロジェクト主査をしたが、その時の中心テーマもWLBであった。今でも入手できない貴重なデータを得ることができた。しばらくすると、所属の学習院大学と有志企業との共同で、WLB指標の開発をおこなった。自己点検用のものであるが、多くの時間とエネルギーを費やした。
日本看護協会からも看護師版のWLB指標作成事業があり、私個人で参加した。その指標を多くの病院で使ってもらうために、全国で展開されたワークショップにも駆り出された。
女性ホワイトカラーのさまざまな職種を調査してきたが、あえて避けていた看護師の世界を知ることは、本格的な論文作成までにはつながらなかったが、良い経験をした。典型的な女性専門職で人数も多いが、企業内キャリア研究の知見も役立つことが分かった。
高齢になるにつれ、学部長や図書館長など公務にさかれる時間がふえ、調査に出かける回数は減ったが、2018年に女性労働研究をまとめた専門書を刊行できたことは嬉しくおもっている。 1999年に博士号をとった専門書から2冊目のもので、研究者としてキャリアが1つ節目を迎えた。
女性労働にしろ、その背景にある「差別」問題にしろ、消えるテーマでないので、今後もゆっくりと地道におっていきたい。
<定年退職後の大谷翔平研究>
2024年に定年退職後、自由に使える時間が激増したので、まえからの趣味の野球を中心に調べることにした。東京でも草野球のチームに所属していたが加齢で出場機会がへり、野球観戦や野球の資料整理にむかった。
引っ越した1999年当時は、東京ドームのフランチャイズ球団は、巨人と日ハムであった。チケットが入手しにくい巨人戦よりも、当時はただ同然で観戦できる日ハム戦をみて、とても驚いた。野球の醍醐味を味わうことができるプレーを、日ハムというよりパリーグの選手がやっている。
それまで京都・岡山時代は阪神ファンであったが、日ハムファンになってしまった。たまに巨人阪神の試合もみたが、セリーグファンには申し訳ないが、パリーグの試合とくらべ、レベルが低いのである。
日ハムは2004年に本拠地を北海道に移したが、ファンはかわらなかった。客のはいらない東京でやるよりも、北海道で良いプレーをしてほしいというファン心理である。当学会で知り合った長谷川裕詞会員(日本ハムファイターズ応援作戦会議)からの日ハム情報もとても参考になった。
北海道移転後日ハムは強くなり、ダルビッシュ、大谷翔平というスターも生まれたことは、ファン冥利につきる。二人が大リーグ(MLB)にうつり、国内にいるときよりもテレビで放映がふえ、日ハム球団だけでなく二人の応援に熱がはいるようになった。在職中から定年退職後は、大谷の足跡を追うことをきめていた。
退職後、社会人向けの大谷翔平の講義を年3回ていど行うことになり、その準備をするなかで、野球というエンターテインメント産業も奥が深いことをしり、本格的な研究の価値があるテーマであることがわかった。
大谷のキャリアを考察していくなかで、心理学からのキャリア論が役立った。学会にはいってなければ、思いもつかなかっただろう。クランボルツの“計画された偶発性”(“planned” happenstance)理論である。目標を立てて計画しても、キャリアは、8割は「偶然」で決まるという現実から出発する。ここで「偶然」とは、予期しない不確実性をあらわすが、クランボルツは、これを積極的に利用することを推奨する、あるいはキャリアをこの観点から描く。
講義をまとめるなかで、論文にしたほうがよいと思い、脇坂(2025)にまとめた。一人の選手が投手も打者もこなすという「二刀流」は、近代野球における分業体制を大きく変える可能性をもっている。大谷の「二刀流」誕生の経緯などを調べると、計画されたキャリアデザインから生まれたわけでなく、「偶然」の要素が大きい。
二刀流という創造的対応(イノベーション)がうまれた経緯と、その後の「偶然」の利用を中心に論じている。
<さいごに>
中学時代の高校選択、大学時代の研究者への道の選択、大学院時代指導教官の研究テーマ選択の助言、そして調査で出会った多くのビジネス・ウーマンや人事担当者、キャリアデザイン学会への入会と出会い、すべて「偶然」の積み重ねで私のキャリアが築かれてきた。
しかしキャリアを歩むのに選択の柱になった分かれ道は、たんなる「偶然」だけではなく、野球や先輩学者の助言から形作られていた、失敗しても、できるところまでやり通す、という心構え、しいていえば「計画」だった気がする。大谷翔平ではないが、私の場合も「計画的偶発性」の枠組みが成り立つと思っている。
目標設定も大切だが、それが達成できないときの柔軟性と、芯はぶれない心構えが必要と考える。
<参照文献>
「『差別』概念の意味についての覚書」『経済論集』60巻4号(2024年1月)
「計画的偶発性と創造的対応の関係 –大谷翔平のキャリアに着目して」『経済論集』62巻3号(2025年10月)
*学習院大学 経済論集 のHPからダウンロード可能