私のキャリアデザイン

義理人情と浪花節
富士電機㈱ 常務理事
経営企画本部 広報・IR室長

内田勝久
義理人情と浪花節

過去を振り返る時間など、今の自分には考えられないと思いながら毎日が過ぎています。今回、日本キャリアデザイン学会創設からの戦友で信頼の厚い現・旧広報委員長の松岡さん、堀内さんに背中を押されて、ペンを執ることにしました。諸先輩や有識者の先生方が参画する日本キャリアデザイン学会は、キャリアデザインの知見が集う最高峰の場です。正直に言ってしまうと投稿していいのか、これまでも見送りしてきました。未完成な自分を省み、看板に汚点を残さないよう、これまでの歩みとキャリア形成に関して考えるところを述べていこうと思います。


<幼少から学生時代>

幼少のころ戦前生まれの両親からは、省資源国の日本は、技術やものづくりが大事なんだ、と夕食の食卓で吹き込まれてきました。漫画を読むことよりプラモデル制作に夢中になり、メンコや缶蹴りやドロケイなどで仲間と毎日遊んだ時代が懐かしいです。中学卒業時に、体育会系運動部の顧問から努力、忍耐、悔いのない人生。雑草のように強くたくましい人生を、と書いていただいた色紙を今も机の引き出しに入れていますが、先生のメッセージを真正面から受けとめる性格は、今も変わらないんだなと今回、原点を考える機会になりました。学生時代を振り返ると、数学・物理・歴史が好きで、自然と工学部に進みました。当時、コンピュータなる情報処理工学が最先端だと思い込んでいました。専攻は、Engineering Management。今振り返れば、もっとまじめに心理学や文学や論語など一般教養を学んでおけば、気の利いた会話ができたかと後悔することがあります。計算機に関する学科が多く、その原理に係る理解は、退屈で仕方がなかった。原理はこの先役に立つのか、プログラミングができればいいじゃないかと。一方で、ORといわれた、オペレーションズ・リサーチとの出会いに、やる気を感じました。そのルーツは、戦時下における軍事作戦を成功に導く手段として大きく貢献したそうで、戦後、ORは民間企業に広まり、経営戦略や生産管理、鉄道や空輸のダイヤ・電力送配電、物流など、様々な分野で活用されるようになりました。ゼミの先生のご指導で、コピー機大手工場で、多品種少量生産の生産管理のシミュレーションや、鉄道会社の運行ダイヤシミュレーション、金融の輸送経路のオレペーションなど、授業のプログラミングでは、想定できない障害発生が何度も起きて、企業で役立つ学問だと自信(学ぶ=稼げる)を持ち始めました。一方で、サークル活動も楽しくて仕方がなかったことを思い出します。苦学生の身、青春18キップ、学割を駆使し、全国のユースホステル、民宿を訪ねては、大風呂を頂き、山海の幸、郷土料理に触れ、個性あふれるオーナーや宿泊する社会人とも深夜まで語り合った思い出があります。稼ぐ=遊べる(笑)と認識しだしたのは、この社会人との出会いです。当時は、就職など興味もなく、将来の夢もなく、寝る間も惜しみよく遊びました。ゼミの先生には、山中湖合宿、六本木のスナックなどでコミュニケーションの足腰を鍛えていただきました。社会に出たら「GNN」が大事だと刷り込まれた記憶は鮮明です。それは、義理人情と浪花節。これをなくして、人間は生きていけないと。今でいえば、キャリア形成はできないと理解しています。この言葉は、今も大切にしています。卒論は、「割付を含む2工程フローショップの問題の解法」で、割付問題は、与えられた条件を複数のタスクにどのように割り当てるかを決定する問題で、こうしたフローショップ問題は、複数のタスクが複数の工程を順番に通過する際に、各工程の処理時間を考慮して、全体の処理時間を最小化する問題を指します。一緒にワークした3人のチームでシミュレーション、解法導き、卒論合格をいただきました。この仲間と先生には、感謝の気持ちでいっぱいです。


<初期キャリア(技術者・事業企画時代)>

1986年4月、現在の勤務先の入社式には北海道から九州まで仲間が集まりました。初任配属は、工場の生産ラインの自動化・MRP/生産管理システムを作る子会社です。生産を合理化できるソフトウェアには計り知れないほど大きな魅力や夢がありました。高い効率化は多くの場合、高い収益性を意味したからです。製造業は、ソフトウェアの計算機能を用い、調達材料をより正確に見積もることで、生産性を高め、幅広く多様な製品を提供しながら、コストを削減できるようになります。当然、システム設計が必要で、オペレーションズ・リサーチは、とても役立ったのですが、肝心のプログラミングで、相当つまずきました。デバックなるもので、ソフトのバグをトレースして探すのですが、会社で朝を迎えることもよくありました。きれいに右肩上がりには、うまくいかないよ。試行錯誤を繰り返し、階段を上るように習熟する、と当時の先輩から言われ、腑に落ちました。3年ほど、広島、兵庫、富山など各地のお客様の生産ラインを立ち上げました。労働生産性を高めるためには、プログラムのモジュール化が重要でたくさんのロジックを生み出しました。一通り任せられるようになったころの春先、将来を考えるようになります。今のままでいいのだろうか。この頃、商品企画に関心を持つようになり、人事の面談を経て事業部門へ異動しました。
事業部は、事業戦略と損益責任を持ち、営業と工場を繋ぐ役割を担います。思い描いていた商品企画に、損益責任が付いてくるとは想定外でした。着任すると、まずは、工場実習が待っていました。生産現場実習(いわゆるものつくり)で、販売するものが、どのように作られるのか、どんな現場で、どんな仲間がそのものつくりを担っているのか。生産活動で学んだことがチーム力です。部品一つが無くても完成できず、ましてや、後工程を考えずに作業をすることで品質やリードタイムにも影響が出ます。ソフトは、個人の力量に左右されましたが、ものつくりの現場では、チーム力が必要です。寮生活も人生を豊かにしてくれました。寮管さんには、心配をかけましたが、8人部屋で生活した仲間は、定時後の懇談で兄弟のように語り合いました。現場の生産性を上げるための課題や、どんな仕事をしたいか、そして郷土の話です。

1年の工場研修を得て、いよいよ事業部の仕事が始まりました。担当した業務は、社会・産業インフラに係る製品の事業企画です。当時の事業部長に、「ソロバンとロマン」をもって、担当する製品の事業規模を拡大せよと、命題をいただきました。今でいう、社会への貢献やサステナビリティーの言葉こそはありませんが、お客様の課題やクレーム対応、新製品企画、拡販のためにお客様を巡回する日々が続きました。お世話になった職場の上司には、月次で進捗を報告し、進まない理由を明確にさせられ、翌月のミッシュンを決めるなど、今の時代では考えられない、手厚い指導をいただきました。レポートも真っ赤に添削。当時は、ワープロやパソコンがない時代で、手書きです。相当へこんだ思い出がありますが、それも一年ほどすると添削もなくなり、社外に展開できる完成図書も作成できるようになります。仕事が油に乗ってきた28才のとき、職場の先輩から労働組合の役員をやってほしいと声を掛けられます。学生時代に「リーダーシップ論」を専攻した先輩のアドバイスは、コニュケーションを通じて、事業部に必要な経営・全社の視点、イベントの企画・推進を通じた社員の一体感の醸成、それとリーダーシップを学ぶチャンスだと。私は、断る理由もなく、組合活動の道に足を踏み入れることになります。

労組時代当初2年間は、仕事をやりながら、定時後に活動。いわゆる二束の草鞋を履くこと。調査部なるもので組合員の労働条件に関する意見の取りまとめや、春闘・労働協約改定交渉の段取りをまとめる仕事でした。アンケートを分析し、改善なる経営提案をまとめて機関紙を配布する、今では当たり前なのですが、その土台を作るなど新しいことにチャレンジしました。その後、同期の戦友から、本社支部の書記長、委員長の後任を託され計6年。とことん対話して課題をつぶすためのツーウェイ・コミュニケーションの大切さを学び、経営課題に関する労使交渉や従業員向けイベントの企画立案実行などを担いました。勿論、バブル崩壊後の時代、出向・転籍者との面談、労働条件見直しに係る課題に対して全国の営業部門を歩きながら組合員の声を経営に届け、労使関係の維持・向上に走り回る毎日が過ぎました。今思えば、労組は、大切な長期安定な大口株主のようです。後任の3役人事が決まり、職場復帰が決まる目前の3、4月頃、突然、人事の話が舞い込んできました。上部団体である電機連合の役員です。


<電機連合時代>

その年の7月、最初の仕事が、フィリピン・パラワン島における7日間のマングローブ植林ボランティアの下見です。7月16日から1週間、現地訪問し、支援学校、NGOと目的と目標、そして段取りを確認しましたが、初めてのことで、正直目的を理解するのには時間がかかりました。9月に募集をかけ、電機メーカ労組からの参加者は、総勢100名程の団体になりました。11月下旬に実施しましたが、マングローブで5万1千本の苗木を地元の小学生、NGOと一緒に植えることができた達成感は感無量でした。ある夜、アボラン町のコテージで仲間と、ボランティアって誰のために行うのか、何のために行うのか。まじめに話し合った記録があります。行きついた解は、自分で決めて、自分のためにやる。当時の結論は、今も変わりませんが、いま振り返れば、社会課題を捉える力と貢献マインドの醸成、これがミッションの目的だったのではと気づきます。この活動は、4年ほど継続させていただきました。苗木のアフターケアを行っている小学校、NGOとの関係を継続することが重要です。目的を共有することが信頼関係につながる貴重な経験になりました。
労組本部の先輩からは、勉強の場として、労働協約を学ぶようアドバイスを受け労協福祉政策を担当しました。新しい時代に相応しい労働条件を委員会の仲間と検討し、育児・介護支援に向けた短時間勤務の協約化など、各社労組と結束し、前進させた記憶があります。小中学時代に鍵っ子で育った経験から親の有難みを痛感していたのかもしれません。交渉に必要なデータを準備し、不十分な部分は、ORの観点で推進しました。労働者の安心・安全を考え、年金・医療・介護・雇用など政策制度の課題にも着眼しました。電機連合傘下の組合員(当時約80万人)が利用できるハートフルセンター(心身、メンタルヘルスの相談を医者、看護師、臨床心理士、カウンセラーが無償で電話相談を受け付ける仕組み)、やくらしの法律相談(各都道府県の弁護士と無償の相談が受けられるネットワーク)など、会社生活を支える仕組みを構築。更に、専門委員会の両副委員長から背中を押され、骨太の労働運動家になるべく、フランス、イギリス、スウェーデン、ドイツ、アメリカの社会保障制度を学びながら、現地の医療介護施設や行政機関を訪問し知見を得ることができました。欧州各国は、国民が選挙で政策を決め社会連帯を基盤にした社会保障制度を確立しており、各国とも少子高齢化、経済の成熟化、失業者の増加等を背景に、既存の制度を見直していました。賦課方式、積立方式、税方式、公助・自助・共助などあり方について調査・分析を踏まえて、基礎年金を消費税で賄うセーフティネット再構築について、財源根拠・シミュレーションを示しながら連合、厚生労働省(社会保障審議会(年金部会))や与野党政策へ提言しています。

 2000年代の入り口は、冷戦構造の終焉により、世界が単一市場として形成され、ITの進展で、人・物・ 金・情報の流れが加速、日本の電機産業は真のグローバル化への対応が大きな課題となっていました。これは、働き方も変革していかなければならない時代を迎えたことを意味し、「働く」ことそのものを深く考えていく必要があることに着眼しました。労働条件の改善が、大きな柱のひとつであることはいうまでもありませんが、働くことの本質にどう労働組合が関わっていくかが大きな役割になります。雇用の流動化に係るニュースを目の当たりにする中で、労働者のセーフティネットを構築することになります。それが、職業アカデミー構想です。大手電機メーカ労使により各社の能力開発の扉を開け、傘下の組合員が研修を受けられるものです。同時に、労組役員がキャリア形成支援に乗り出します。電機連合は、自民、公明、民主と政策協議を実施していましたが、このキャリア形成支援が、自民党・麻生先生の目に留まり、e-JAPAN構想の1テーマに採択されました。これを機会に、厚生労働省傘下の雇用・能力開発機構に支援を頂きました。テキスト、講師マインドやスキルのノウハウなどを構築しながら、労組がキャリア開発推進者になり組合員のキャリア形成支援に乗り出します。私は、日本経団連キャリア・アドバイザー(NCA)養成講座を受講し経営者団体の知見も学びます。この間、確定拠出型年金の導入、年金制度改革、定年制の在り方、エイジレス社会の到来など働くことの意味、中長期の職業キャリアを考える気づきを得る活動がマスコミ報道でも脚光を浴びました。実は、この構想について川喜多先生から声をかけていただき、日本キャリアデザイン学会創設のお手伝いをすることになります。先生からは、サラリーマンは一人一人では弱いんだ。みんなで力を合わせて、生き抜く力を共有することが大事なんだと、懇親しながら働く事の意義を議論したことは、今も記憶に残っています。その後の活動で、歴代会長の中村先生や脇坂先生からも多様性や地域社会の視点からキャリアデザインを考える事の重要性も学びました。


<会社復帰から現在まで>

こうして、30代は、組合活動から労働運動に全力を注ぎましたが、2003年10月、事業会社に復帰します。同期の仲間、後輩や先輩は、専門性の高い職務を任され、ライン長で組織を牽引している人もいて、それぞれがプロになっています。1年間は、目的や目標もなく、会社にも上司にも期待されず、時間ばかりが過ぎていきました。経験してきた労政や産業政策は、一企業では役に立たないことを思い知ります。2年前にキャリアデザインのテキスト制作でお世話になった先輩(当社OB)が、私の噂話を聞きつけ心中を心配してか、懇親会の声がかかります。会社は経営。事業拡大、損益重視。闊達な行動特性は、良しとしても時にはツバを飲むこともあるんだよと諭してくれたことから光明が見えました。
2年目に入り、事業部時代に私を労働組合に誘ってくれたリーダーシップ論を持つ先輩から声がかかり、「営業維新」のスローガンを掲げ、営業改革に乗り出します。セールスフォース視点を持ち、仕事のやり方を変えていくこと。営業生産性を高めて、商品企画、戦略課題のスピードを上げていく。全国の営業拠点、代理店と目的を共有し目標に向けて仕事のやり方を変える。新しい仕事を得て、ようやく働き甲斐を見出だすことが出来ました。
それから、リーマンショック、東日本大震災と大きな環境変化の中で、当社は純粋持株会社制を廃止し、事業会社として「一つの富士電機」に生まれ変わっていきます。この時、労働協約を勉強するのがためになるとアドバイスしてくれた先輩(現在の上司)とのつながりから、ご縁があり、現職であるブランド、広報、IR、CSR、SDGsなどをはじめ100周年記念事業も任されるようになりました。工場の自動化、人工知能の魅力に取りつかれて職業・会社を選択し、会社でも多くの経験から職場を異動。技術を捨てた男と言われ、人の縁で、労働運動にのめりこみましたが、ようやく、会社生活も総仕上げの時期に大きな目的、目標を見つけたようです。当時の社長(現、会長CEO)には、「敵は己の心にあり」と教えていただき、すべては結果。ものつくりを重視し、数値つまり収益にこだわること。そして、大切なのは社員とその家族の幸せ。そのために高みを目指すことが大事なんだと。先輩には「困難な目標ではあるが決して不可能ではない挑戦」とたくさんの新しい課題を設定頂き、今を生きています。随分長くなりましたので、現在の仕事については、データドリブンを重視し変化をチャンスに変えるCOOのもと、もう少し成果を出したあとに機会があれば、お話ししたいと思います。


<まとめ>

子供のころ実家の額縁に「自ら頼み 自ら努力しないかぎり、人生は無意味だ」とありましたが、これが生きる力になっています。学生時代からの経験を通じて、キャリア形成で重要なのは、与えられた環境で、先生、仲間、先輩・後輩、上司などとしっかりとコミュニケーションすることが重要だと考えます。そこから得られる、人の言葉を信じて、進むこと。生成AIを頼る時代、選択肢の支援ツールとしては便利ですが、人から気づくことの大きさには、勝るものがありません。義理人情と浪花節。これが、私のキャリア形成の源泉です。
長寿社会、だれもが豊かな社会の中で、人生2毛作、3毛作の時代になります。会社同期の仲間と還暦ゴルフでお互いを励まし、職場の仲間、労組の戦友、家族にも還暦を祝って頂きました。これまで、たくさんの経験でキャリアを積み重ねられたのは、こうした先輩、仲間そして家族のおかげです。すべてに感謝の気持ちを伝えるとともに、家族のキャリアの足かせにならないよう、健康第一に努めたいと思います。私も初老。次の世代の役にたつように、好奇心を忘れずに、貢献マインドを持ち、楽観的に試行錯誤を惜しまないよう歩んでいきます。