私のキャリアデザイン

変化とともに歩み続けて―マルチステージな人生の波に乗って―
東京成徳大学国際学部 特任教授
稲垣久美子
変化とともに歩み続けて―マルチステージな人生の波に乗って―

学校を卒業して働き始めたのは昭和の時代。その後、平成、令和という時代の波を越えながら、私はキャリアを歩んできました。その間、両手の指では足りないほどの転職を重ね、私自身のキャリアは様々な景色に彩られてきました。振り返ってみると、私のキャリアはきれいに設計されたものではありません。それでも、行き当たりばったりというわけでもなく、その時々で迷い、悩みながら決断を重ね、自分自身を変化させながら進んできた道程だったと思います。


20代の頃の私は、働きながら大学の通信教育課程で学ぶ日々を送りました。「よく働き、よく学び、そしてよく遊ぶ」そんな毎日だったと思います。休みの日には旅行に出かけ、ユースホステルを利用しながら、北は礼文島、東は根室半島、南は波照間島、西は壱岐・対馬まで、多くの場所を訪れました。旅先で出会った人々や文化との触れ合い、そして美しい風景は、今でも私の心の中に大切な記憶として刻まれています。こうした経験は、私の視野を広げ、生き方や働き方に対する考えにまでも影響を与えていると思います。


当時の昭和は、「女性はクリスマスケーキ(25歳を過ぎたら売れ残り)」や「腰掛け(結婚までの仮の仕事)」といった言葉がまかり通る時代でした。20代の私は、楽しさの中にもどこか見えない圧力に抗いながら日々を過ごしていたように思います。未来の指針となるようなロールモデルは見つけられませんでしたが、それでも「自分の道は自分で切り拓きたい」という思いは、確かに抱いていました。
平成に入り、バブル経済が崩壊した頃、私は20代の終わりに仕事を辞め、渡米してビジネススクールへ留学する決断をしました。留学費用は自費で賄い、生活を切り詰めての挑戦でした。未来は不透明で、留学後の見通しも十分ではない中でのスタートでしたが、それでも新しい扉が開かれていく興奮を抱えていたのを覚えています。留学当初は英語力も十分ではなく、授業についていくだけで精いっぱいの日々でした。それでも次第に環境にも慣れ、昼間は現地企業でインターンとして働き、夜間に開講される授業を受けるという生活にシフトしました。夜間授業に集うクラスメートたちのほとんどは、それぞれに仕事を持ちながら学んでいました。学ぶ目的も問題意識も人それぞれで、そうした多様な背景を持つクラスメートたちとの語らいは、私にとってとても刺激的でした。乳幼児を育てながら企業で管理職として働く人など、いくつもの役割を担いながら学ぶ姿に触れるなかで、「こんな生き方もあるんだ」と、自分のなかの選択肢が静かに広がっていくのを感じたのを覚えています。


留学を終え、帰国後、人材開発や組織開発に関わる仕事をしたいという希望を持っていましたが、当時の日本は経済の低迷期にあり、大企業ではリストラが進んでいました。そんな中で、30代の女性が再就職先を見つけるのは決して容易なことではありませんでした。それでも地道な努力を重ね、希望に近い仕事に就くことができました。しかし、その後の勤務先では買収や組織再編、事業撤退による会社の解散など、予期せぬ展開が相次ぎました。職を失い、再出発を余儀なくされることもたびたびありましたが、その都度、次の一歩を模索し、転職を重ねていきました。自分の力ではどうにもならない状況の中で、キャリアが翻弄される現実に直面し、無力さや虚しさを痛感しました。その一方で、働く個人の自律を支援することの大切さに、次第に関心を抱くようになっていきました。
その関心から、キャリア・カウンセリングの分野と出会い、資格を取得したのち、さらに専門知識を深めるために、社会人向けの夜間大学院へと進学しました。大学院には、様々な年代、職業、バックグラウンドを持つ人々が集まり、それぞれが問題意識や課題解決の糸口を求めて学び直しに取り組む姿がありました。私は、自身の問題意識に向き合いながら、「キャリア中期の転機」をテーマに研究に取り組みました。大学院での学びや研究の時間は、私にとってまさに「人生を再構築する場」だったと言えます。それまでに得たもの、失ったものを丁寧に見つめ直すなかで、私はあらためてこれから進むべき道を問い直していました。ちょうどその頃、日本ではニートやフリーターの増加など若年層の就労問題が社会課題として浮上しつつあり、キャリア教育が政策として推進され始めていました。社会人大学院に入学した当初、自分が大学で教える立場になるなど想像すらしていませんでした。しかし、文部科学省が大学でのキャリア教育の普及、実務家教員の配置を後押しする流れの中で、私は産業界から実務家教員としての新たな道へ進み、キャリア教育に携わることとなりました。そのチャンスをつかんだ瞬間 それは、私にとってまたひとつの「扉」が――そっと開かれた時でもあったのです。


教員に転向してからは、美術大学、女子短大、社会科学系学部、そして現在の国際系学部と、勤務先を変えながらキャリア教育の現場に立ち続けました。それぞれの教育現場で期待される役割やニーズが異なるため、その都度、新たな挑戦を重ねてきました。
最初に勤務した美術大学では、キャリア心理学を土台に、学生一人ひとりが自らの「こだわり」や「自分らしさ」に気づけるよう、ワークショップ形式の授業を丁寧に設計・実施しました。この試みによって得られた実感や学びは、後の教育活動の土台として、今もなお生き続けています。その後の女子短大では、家政系学科がライフデザイン学科へと再編される時期に、社会人基礎力を育むカリキュラムの開発を担当しました。数年後、その女子短大の学生たちが「社会人基礎力グランプリ」の地区大会を突破し、全国大会で準グランプリを受賞したときには、教育の可能性を実感しました。
その後、大規模な私立大学の政治経済学部に所属する教員として、学部教育と連動したキャリア教育のカリキュラムを設計・推進し、学生たちの将来の選択肢を増やすべく、社会とつながる教育プログラムの企画・実施に取り組みました。社会で活躍する多彩な人物を大学に招聘し、学生たちが自身の将来像を描くうえで参考となるロールモデルと出会えるような授業を展開しました。この一連の活動は、キャリア教育の重要性を再確認する機会となりました。


そして、令和の時代を迎えて、現在は、全員留学が必須の国際学部に所属し、留学経験とキャリア形成をつなぐことを視座に入れたキャリア教育を実践しています。グローバルな環境での経験をどのように自己理解や将来像に結びつけていくか、学生一人ひとりと向き合いながら、キャリアの可能性を広げる支援に取り組んでいます。これまでのキャリア上のあらゆる経験が折り重なり、今の教育実践に深く根ざしていると感じています。キャリア教育は、私にとって「天職」だといえる仕事です。
振り返ると、私のこれまでのキャリアは、予期せぬ転職や再出発の連続でした。働きながら学ぶこともあれば、仕事を辞めて海外で学び直すこともありました。夜間の大学院での学びが、まったく想像していなかった「大学教員」という新たなステージへと、私を導いてくれました。どれも一貫した計画のもとにあったわけではありません。けれどもその都度、自分にできる選択を重ね、結果としてマルチステージなキャリアを歩んできたのだと思います。
これから先、日本は人生100年時代といわれる長寿社会を迎えます。これからの人生をどう描くのか。その問いは、年齢や境遇を問わず、誰もが自らに投げかけられるものです。自分自身のこれからと静かに向き合いながら、誰もが自分らしく歩めるキャリアデザインの可能性を、私自身も探し続けていきたいと思っています。