私のキャリアデザイン

キャリアをめぐる議論と人的資源管理
東京大学名誉教授
佐藤博樹
キャリアをめぐる議論と人的資源管理

(はじめに)

「キャリア」をタイトルに含む研究書や実務書が、ここ数年、急増している。これらの書籍の多くは、急速に変化する社会経済環境の中で、働く人のキャリアに関する自律や主体性を重視することの必要性を指摘している。人的資源管理の領域においても、「キャリア自律」や「キャリアオーナーシップ」に貢献するキャリア形成支援の重要性が強調されている。
日本企業、特に大企業における従来のキャリア形成は、いわゆる日本型の雇用慣行のもとで、企業が主導権を握り、社員はその制度の中で企業が提示するキャリアを受け入れていくことが一般的だった。しかし、今日ではその前提条件が大きく変わりつつある。企業は、かつてのように社員一人ひとりに対して各自が希望するキャリアを提供することが困難となり、社員個人には自主的なキャリア選択が求められるようになってきている。これは、企業主導型キャリア管理から、社員による自己選択型キャリア管理あるいは会社と社員と間の調整型キャリア管理への移行でもある。
こうした状況の中で、人的資源管理も変化している。たとえば、社内公募制度やFA制度の導入、さらには副業の容認・推進(そもそも副業を一律に禁止することは法的にできないが)が広がるなど、社員自らがキャリア選択の主体となることを支援する仕組みづくりが進められている。これらの動きは、「キャリア」の再定義と、それに基づく新たな人的資源管理への移行ともいえる。
日本キャリアデザイン学会は、こうした動向を先取りしてきている。他方で、「キャリア」という言葉がいわゆるバズワード(buzzword)として、意味が曖昧なまま使用される場面も少なくない。そこで以下では、キャリアデザイン学会の会員の皆さんにとっては既知の内容がほとんどであると想定されるが、私自身の整理として「キャリア」に関して議論させていただくことにする。

(「キャリア自律」と「キャリアオーナーシップ」の異同)

「キャリア自律」とは、キャリア形成を企業などに委ねるのではなく、個人が自己のキャリアの方向性を考え、必要な行動を主体的に選択し実行することを意味する。企業に依存せず、自らの意思でキャリア形成に関与するという点において、能動的な「行動」を意味する概念である。
一方で「キャリアオーナーシップ」は、キャリア自律と重なる部分もあるが、それよりも広い概念である。それは単なる「行動」の自律ではなく、「自らのキャリアは自分のものである」という「認識」と「責任感」を伴うキャリア意識を指す。言い換えれば、キャリアオーナーシップは、キャリア自律の前提であり、それを包含する概念である。
この両概念はしばしば混同されるが、キャリア自律が「行動」を強調するのに対し、キャリアオーナーシップは「意識」や「責任感」を重視するもので、人的資源管理においても両者を区別して理解することが求められる。

(「偶発性」を活かすキャリア形成とその支援を)

社員のキャリア自律について議論する際の課題の一つは、社員が「すべてを自分で計画・設計し、実行しなければならない」と単純に理解してしまい、「自分にはできない」と不安やプレッシャーを感じてしまうことである。これは、キャリア自律を「完全に自己責任で設計するもの」と狭義に捉えてしまうことに起因するもので、それは現実のキャリア形成とは異なる。
この誤解を解く理論的手がかりとして有益なのが、クランボルツの「計画された偶発性理論」(Planned Happenstance Theory)である。この理論は、キャリア形成における「偶然の出来事」が持つ創造的な可能性を重視し、キャリアは計画通りに進むものではなく、むしろ予期せぬ出来事をいかにポジティブに活かすかが重要であると主張するものである。この点の理解促進を含めて、企業としてはキャリア形成支援を行うことが大事になる。
この理論は、偶然を活かすための能力・行動特性(スキル)として、以下の5つを提示している。すなわち、「好奇心」(新しい学びや経験への関心)、「持続性・粘り強さ」(困難に直面しても粘り強く努力を続ける力)、「柔軟性」(変化や新しい状況に適応する能力)、「楽観性」(物事を前向きに捉える態度)、「冒険心・リスクテイキング」(リスクを恐れず新しい挑戦に踏み出す勇気)である。
これらの能力・行動特性は、キャリア自律の実現において極めて重要であり、企業が行うキャリア形成支援においても、育成の対象とすべきものとなる。

(社会経済環境の変化とキャリア自律)

キャリア自律やキャリアオーナーシップが重要視される背景には、社会経済環境や労働市場行動の構造変化がある。特に企業が、VUCA(Volatility, Uncertainty, Complexity, Ambiguity)と呼ばれる不安定かつ予測困難な環境に直面していることで、人的資源管理における従来型のキャリアモデルはその前提を失いつつある。かつては、企業が社員に対して長期的・安定的な雇用を提供し、社員はその中でキャリアを形成するという両者の間には「相互依存関係」が存在していた。しかし近年では、企業がそのような機会を継続的に提供することが困難となり、加えて社員の属性や価値観が多様化した結果、社員が希望するキャリアも多様化することで、その困難がより高くなっている。
たとえば、「仕事を通じて自己実現を果たしたい」「管理職ではなく、専門職としてキャリアを歩みたい」「仕事と家庭や地域での生活とのバランスを大切にしたい」「時間や場所が柔軟し選択できる働き方をしたい」など社員のキャリアや働き方に関する志向の多様化である。このような多様な就業ニーズに対して、企業が一元的なキャリアや働き方を提供することは現実的ではない状況にある。
このような背景からも社員には、自らがキャリアの方向性を考え、環境の変化に応じて柔軟に行動できるキャリア自律が求められているのである。

(「キャリア弾力性のある労働力」と企業の競争力)

キャリア自律を持つ社員は、単に自分自身のキャリアを切り開くことができるだけでなく、所属する組織のレジリエンス(変化への適応力)を高めて、企業の競争力に貢献する人材であるため、企業としてもそうした人材の確保、育成が極めて大事になる。キャリア自律を持つ社員は、企業の競争力にも貢献するのである。この点に関してはWaterman & Waterman(1994)の論文「Toward the Career-Resilient Workforce」 が詳しい。同論文によると、変化の激しいビジネス環境や技術革新に適応できる柔軟性と学習意欲を持つ人材、すなわち「キャリア弾力性のある労働力」に関して以下のような特徴をあげている。すなわちそれは「キャリア主体性を持つ」(自身のキャリアを企業任せにせず、自らの責任で形成する)ことに加えて、「自己学習力が高い」(変化するスキル要求に応じて学び続ける姿勢)と「変化適応力がある」(ビジネス環境の変化に迅速に対応できる柔軟性)である。こうした特徴は、前述した偶然を活かすための能力・行動特性と重なる部分が大きいことも確認できる 。
キャリア自律を含めてこのような能力を備えた人材が組織に多く存在することで、組織の機能的柔軟性が高まり、企業は不確実かつ急速に変化する社会経済環境や技術革新に対する対応力を高めることができるようになるのである。

(社員任せでなく、企業に求められるキャリア支援)

上記の点から、人的資源管理では、キャリア自律を単に「社員任せ」にするのではなく、企業としてそれを支援する取り組みが重要になることが理解できよう。企業による支援がなければ、個人のキャリア自律は持続的に成立しにくく、結果として離職やエンゲージメントの低下を招く恐れがある。
企業によるキャリア形成支援の具体策としては、以下のような取り組みが挙げられる。すなわち、「自己理解支援」(キャリア面談、パーソナリティ診断、アセスメントツールの活用等)、「学習機会の提供」(リスキリングやアップスキリングのための機会や情報提供、教育訓練機会の受講支援等)、「キャリアの可視化」(職場におけるスキルマップの整備、社内のキャリアパスの提示、社内公募制度の整備等)、「越境学習の機会提供」(社外出向、副業、プロボノ活動に関する情報提供等)である。
こうした支援策を通じて、企業は社員のキャリア自律を促進しつつ、組織全体としての柔軟性と競争力を高めることができることになる。

(おわりに)

以上のように、キャリア自律およびキャリアオーナーシップは、個人の成長と企業の持続的競争力の維持・向上の両方に寄与する概念である。VUCA時代においては、社会経済環境の変化に柔軟に適応できる人材を企業としていかに育成し、それを企業組織の競争力として活かすかが、今後の人的資源管理の大きな課題となる。キャリア形成支援を人的資源管理の中核を構成するものとして位置づけ、個人と組織の新たな関係を築き上げていく必要がある。つまり、キャリア自律は、単に社員個人の成長にとどまらず、組織全体の持続的成長と適応力を支える戦略的要素である。社員に対してキャリア自律を「求める」のみでなく、企業としてそれを「支える」取り組みが、今後ますます重要になるといえる。