本当に正直に言ってしまうと、今の僕が教育学の研究者、あるいは大学教員になっているのは、「偶然」の積み重ねでしかない。いや、正確には「失敗」と「偶然」の連鎖によると言うべきだろうか。
<大学入学後の煩悶>
そもそも僕は、自分が志望していた大学に教育学部が存在することすら知らなかった。
類型だけを選んで受験して、2年次までは全員が教養学部に所属するという教育課程だったので、3年次に急遽、大転身して教育学部に進学することが可能だったのである。ではなぜ、そんなことになったのか。人前で言うのは憚られるが、僕は大学に入学して半年も過ぎると、しだいにキャンパスや教室に足が向かなくなっていた。日々、「こんな講義を受けて何になるのか?」とか「こんな大学生活を送るために、あの面倒くさい受験勉強をしてきたのか?」などと生意気な(身勝手な)ことばかり考えていた。当時の僕には学問への畏れなどなかったし、理屈はともかく、心と身体が教室に向かおうとしなかったのである。
あの時の自分がどうしてあんな状態に陥ってしまったのかは、今ならよく理解できる。恥を忍んで言えば、高校時代の僕は、志望大学に合格することじたいを「目標」にしていた。その「先」も考えていたつもりではあったが、実はあやしく、曖昧だった。だから、晴れて志望の大学に入学できると、本来なら前途洋々のはずなのに、逆に目標を喪失してしまい、途方に暮れはじめたのである。
そんな時期、偶然、学内ですれ違った友人から「この授業、絶対に面白いから来てみたら」と言われたのが、一般教育科目として開講されていた「教育学」だった。「どうせ暇だから」と、騙されたつもりで教室に足を運んでみた。すると、どうだ。面白いどころか、まさに青天の霹靂だった。大学生にもなって、なぜ僕のような若者が輩出されてしまうのかが、日本の学校教育の特性や学力競争、学校知のあり方、受験競争システムや学歴社会等について学ぶことを通じて、ストンと胸に落ちてきた。
「こんな学問があったんだ!」。入学前にうっすらと考えていた進学先の候補には目もくれず、教育学部に進学することに決めた。
<卒業を前に>
こうして失敗と偶然の産物で教育学部に進学した僕は、まるで生まれ変わったかのように、(自分でも不思議だったけれど)教室に足が向かうようになった。授業も興味深かったし、学問や研究ということの奥行きの深さにも少しは気づくようになっていた。そして、卒業後は高校の教師になりたいという希望も固まって、4年次の春には教育実習にも出かけた。実習の初日などは緊張しすぎて、昼食も喉を通らなかったことを記憶している。しかし、終わってみれば楽しく、充実した2週間だった。
ところが、こんな調子で意気揚々としていた矢先、再び自らの「失態」が招いた転機に見舞われる。教育実習の終了後、書類の提出が必要だったので、これまでの単位修得状況と教職課程の履修状況を見直していた。すると、あろうことか、教員免許状の取得に必要な科目を1つ、登録し忘れていたことに気づいたのである。単位数の合計は余裕で足りていたが、細かな必修の区分を見逃していた。目の前が真っ暗になり、背筋が寒くなるとは、まさにこういうことかと実感した。しかし、どんなに後悔しても後の祭りである。
<長い入院生活へ>
学部の卒業を前にして、かなり悩み、そして迷った。手段としては、意図的に留年するという選択肢も、いったん卒業した後に科目履修生として足りない分の教職科目を履修するという選択肢もあった。しかし、当時の僕にとっては、それらは「悔しすぎた」。結局、アクロバティックな手に出ることにした。大学院に進学すれば、学部の授業を聴講して教職科目の不足分を取ることもでき、かつ、この時期、自分なりに熱中しはじめていた教育学の研究も継続することができる。まさに一石二鳥ではないかと考えたのである。
かくして、入院生活が始まった。最初はそんなに長居をするつもりはなかった。それなのに、気がついてみると、「退院」という決断をいつになってもできないでいた。修士論文を書き終える頃は、「これで終わるのはもったいないかな」と思ってしまい、博士課程に進学。その後も、論文を書く度に「あと少し」などと考えるようになっていた。そんなこんなでズルズルしているうちに、(あの当時の)公立学校の教員採用試験には受験できる年齢に制限があることに気づくのである。これも自分の失敗と言えばそうなのだが、今回は、半ばは無意識だが、半ばは意図的に考えないようにしていた節もある。ともかくも、そのまま研究を続けていくという将来設計のほうに足を踏み出すことにした。
<私とキャリアデザイン>
さて、こんな調子で書いているとキリがなくなるので、このへんで止めにしたい。
冒頭でも予告したが、僕には、ある時点で将来の目標を定め、その後はそれに向けて努力し、結果として、現在は教育学の研究者(大学教員)になっているといった自覚がいっさいない。僕の履歴書(外的キャリア)を見る人は、もしかすると、そんなふうにも理解するかもしれない。しかし、それは、僕個人の感覚や自身の遍歴についての内的な意味づけ(内的キャリア)とはまるで異なっている。
そんな僕が「私のキャリアデザイン」などというテーマの寄稿を依頼されるのは、正直に言って、迷惑を通り越して困ってしまう話である(笑)。「私のキャリア」であれば、いくらでも語れる。しかし、僕にはそれを「デザイン」した覚えがない。せいぜいが、「失態」を演じて突きつけられた困難の中で、偶然にも助けられながら、そのつど苦渋の選択や「賭け」をしてきただけなのである。
ただ、発想を大逆転させて、キャリアデザインという概念のウィング(多様性)を思いきり広げれば、僕のような生き様も一つの「キャリアデザイン」なのかもよ、と言ってみたい誘惑には駆られる。とりわけ、前向きで、ポジティブで、成長意欲やチャレンジ精神に溢れる「意識高い系」になんて、絶対になれりわけがないと溜息をついている若者には、こんな人間もいるということを伝えたい。「青い鳥を探せ」なんて、僕は絶対に言わないから。